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2024/02/17

猿島

 久しぶりに上京したのでなんか見ておこうかと思案して、今回は猿島を訪ねてみることに。東京湾に浮かぶ唯一の無人島、旧軍時代の砲台跡が残る史跡です。三笠の近くからフェリーで10分ほど。移動する電車の中で割引チケットを予約して、10時過ぎに到着。って、こんなに並んでて乗れるのか?いや意外に乗員数多いのね、なんとかなりました。キャビン外のエリア、左側はロープで規制されてるのが何故なんだろうと思ってましたが、動き出して納得。


こっちからの波がざっぷんざっぷんまともに飛沫がかかるのですね。そこそこかぶってしまいました。帽子と上着でカバーできているからびしょ濡れと言うほどではありませんが、湾内とは言え冬の波ですな。


さて自分で見て回るか、ガイドツアーに参加するか。船着き場の近くでガイドさんが客寄せやってたのでこっちにのっかりましょう。600円ですが3人でやってくれるので小回りも効きそうです。

最初に概論。砲台はおおむね三つの時代に作られたと。最初は江戸時代、ペリーが来る前から諸外国は開国を迫っており、それに対応するために作られたのが発端。次に日清・日露戦争の明治。そして太平洋戦争の昭和。

受付近くの煉瓦煙突、その横の発電機設備と共に作られたものだそうです。煉瓦の上に漆喰が塗られているのですが、関東大震災でも倒れることがなかったと。発電機は元々は石炭ボイラーだったのですが、ディーゼルエンジンになって今でも使われているとのこと。元々は山頂に設置された探照灯の電源であったそうな。


歩きはじめて、先の探照灯へつながっていたケーブルの痕跡。発電機近くは埋められた配管の中を通していたので、整備用の穴(ハンドホール)が設置されていたと。




途中で地上に出て、切り通しの通路の石壁、煉瓦壁のフックに吊っていたそうな。



第二砲台塁道、ここに弾薬庫と隣に兵舎がありますと。弾薬庫側と対面、同じ石壁ですが作りがずいぶん違います。弾薬庫と兵舎のある側は石も大きめで僅かに曲面を描き、城の石垣と同じ造作であるとか。




昔は勝手に出入できてた様ですが、今はきちんと施錠されています。後から中を見せてくれるとのことで期待。


切り通しの道は今は整備されていますが、最初に作られた頃は飛び石を敷いて歩きやすくしていたとか。



兵舎の対面がえぐられて煉瓦壁になっているスペース、御不浄であったそうです。



兵舎から砲台に上がる石段。今は閉鎖されてます。


石壁にうがたれた穴。対面にも同じものがありました。梯子でも取り付けられていたのでしょうか。


江戸、明治の頃の砲台は跡もほぼないとのことです。崩れたり埋まったり、或いはその上に新しい砲台を造ったなど。確かに適した場所は変わらんだろうからなあ。

こちらは12.7cm高角砲砲座、でいいのかな。兵士の待機所と砲弾の置き場。



展望台まで登って、眺めがいいですな。


あれは護衛艦かな。


この辺りに探照灯がありましたと。その向こうには指揮所。まだ建物はありますが、危ないから立入り禁止だそうです。むかーし、仮面ライダーの撮影に使われたこともあったとか。うん、雰囲気あります。


明治期に作られた砲台は陸軍の24cm、及び27cmの加農砲。その後対空装備が必要として、海軍によって7.5cmと12.5cm高角砲が備えられたと。通路を歩きながら砲台跡を巡ります。




元は弾薬庫であったものを通路に改装したトンネル。


入り口上部、漆喰の上にアスファルトを塗っていた名残が見えます。


天井には通気孔。


壁には照明を設置した別通路からの点灯室。


隅には弾薬を揚程するための揚弾井。


ちゃんと残ってるんだなあ。抜けてから振り替えると、点灯用の通路が。


「愛のトンネル」なんて命名されてますが、煉瓦作りのトンネル。幅4mで全長約90m。この広さなら軍用車でも通れたのかなと(その前に島にもって来るのが難儀か)。



トンネルに入らずに横にそれると、煉瓦に刻印を見つけられます。


トンネルの途中には横に抜ける階段が。


塁道に戻って、加農砲の下に作られた弾薬庫と兵舎も、鍵を開けて中を見せてもらいます。弾薬庫は二部屋に分かれた構造で、やはり灯を照らす窓が横にしつらえてあります。壁の落書きも迂闊には消せないそうで。



元はガラスで仕切られていた灯窓。


揚弾井、木が緩衝材として張られていたと。


兵舎はマンションの3LDK並みの広さ。床に土台を置いて板を置いて畳を敷いたそうです。毛布も一人当たり3枚配られて、この広さで15人住まい。戦時中の兵舎としてはそれなりの待遇であったのかなあ。実戦を経験したのは空襲に対応した一度だけであったそうとか。


灯取りの窓を外から。


鶴首揚弾機の名残がありました。


曲がり角の石壁にある凹み。上陸した占領軍の英軍が、日本兵が待ち伏せている事を恐れて威嚇のために射撃した跡だとか(真偽不明)。


ぐるっと回って90分ほどの解説でした。いや、思っていた以上に濃厚な遺跡があるんだなあと言う感想。施錠された場所以外は、もっかい来てじっくり眺めても良いかもしれない。そんな感想を持った猿島でした。

最後に、海岸にある海軍港碑。


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